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2010年9月30日 (木)

父のこと(7)

父は8月4日に日赤病院に転院しました。

その週末に見舞いに行きました。

7月下旬に見舞いに行ってから、日赤病院への父の見舞いは
このときが初めてでした。

7月下旬の見舞い時とは違って、父は点滴と酸素マスクをつけて
パジャマの上着と短パンでベッドに寝ていました。

意識はあるものの、呼吸困難や身体の苦痛で、とても話せる
ような状態ではありませんでした。
父は苦しそうに酸素マスクをつけ天井を見つめるのみでした。

前回は歩いていたし、かすれ声だけども会話をしていて
なおかつその時は癌とは誰もが知らなかったので、それほど
期間があいてないにも関わらず、父の容態が明らかに悪化
していることに改めてショックを受けました。

本当に病状は深刻なのだと認識させられたと同時に
こんなに短期間での急な展開に私はどうしていいのか戸惑いと
同時に、またこれまで何もできていなかった自分に後ろめたさも
感じました。

父は私が見舞いに来ていることは知っていつつも話す余裕も
なく、たたただ苦しそうでした。

唯一、父が体を起こしたがったので、体を起こすのを手伝うと
ミニ冷蔵庫を指しその中にウィダーインゼリーが入っているので
取って開けてほしい、としぐさで訴えました。

ゼリーのふたをとって渡すと、父は別途の端に座って少しずつ
飲みました。
マスクを外して呼吸をするその体からはガラガラと音がしていました。
おそらく気道にある痰の音だったのでしょう。

ベッドの脇には母と会話をするために使った筆談ノートが置いて
ありました。
ただその筆談もままならないほど、父の手も腕も自由がきかない
ことは、くずれて読めない弱々しい字が物語っていました。

それでも父は私に何かを語りかけようとして手を上げたり
ジェスチャーをしてみせてくれました。

その日私が病室を出るときには、父は顔をしかめながら
「申し訳ない」と何度もしぐさで示すので、
「おとうさん、きついけど頑張ってよ。またくるからね!」と
励ますと、父は「うん、がんばるから」と表情で答え
こぶしを上げてそのあと私に握手を求めてきました。

父と激励の握手をしたその手は、筆談は難しくても
まだまだ力強いものであり生命力を感じました。

それと同時に精一杯笑顔を作っているような父を見て
涙がこぼれそうになりました。

だけど、ここで涙を見せてはいけないと、私も頑張って
泣くのをこらえ、父のいる病室をあとにしました。

病院の廊下を歩く時には既に涙が止まりませんでした。

 

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明日から10月ですね。
「涼しい」から「寒い」に変わっていきつつあります。
季節の移り変わりについていくのがやっとです。

皆さん、体調をくずさないようにしてくださいね。

 

 

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2010年9月28日 (火)

父のこと(6)

7月に体調を崩し入院した父に最終的に言い渡された病名は
「食道がん」でした。

電話で連絡してきた母には、その進行度合いや助かる可能性が
高いのか低いのかを聞けませんでした。

というより、電話連絡してきた母の口調から、助かる可能性が
低いことを察知したのでそれ以上母に聞けなかったし私自身も
怖くて聞けませんでした。

  

最初の病院で父が癌であることを知らされてから、母はある行動を
とりました。

それは、父の実の子供さんへ父の病名と容態を知らせるための
電話連絡
でした。

父には実の息子さんと娘さん(兄妹)がいます。

息子さん(タカシさん:仮名)は私より少し年上、
娘さん(ユウリさん:仮名)は私より少し年下で、世代としては
ほとんど同世代です。
父もまたタカシさんたちが幼い頃に離婚していました。

父の家系は教師一家のようで、父の親も教師、父自身は体育教師、
父も国語教師の女性と結婚し、その間に生まれた長男のタカシさんも
今では高校の体育教師、長女のユウリさんも今は中学校の教師
という職業に就いていて、そのタカシさんの奥さんも高校の教師、
ユウリさんのお婿さんも小学校教師という身内の全てが「教師」であり、
私たち母子とは全く違う世界の人たちでした。

私が会社に入ってしばらくしてから1,2回ほど彼らと会った事が
あります。
当時、父と母が一緒に食事をしないか、と引き合わせてくれた
のです。

父の整った顔立ちに似ているようで、タカシさんもユウリさんも
とても端整な顔立ちで、そういう容姿からしても職業にしても
経済的に裕福な環境にしても、私たちとは違う、という感じが
しました。

タカシさんとユウリさんが幼い頃に父は離婚し、タカシさんと
ユウリさんは実母(前妻)が引き取り、その後数年を父は
独身ですごし、地域の体育館で夜間に行われていたスポーツ
レクレーション(バドミントン)を通じて父と私の母は知り合い
親しくなっていったようでした。

なので、私は生まれてすぐの頃から父はいなかったのですが
タカシさんとユウリさんは、幼い頃の父の思い出はあったけども
途中から父が不在になってしまったので、子供時代から思春期
の時代を父に対して複雑な思いを抱いて過ごしたという意味では
境遇は似ていたのかもしれません。

子供たちもまた教師の道を選んでいるということは、教師であった
父や彼らの母(父の前妻)の影響は大きかったのだろうと思います。

「生まれてから幼少時代まで」実の父と過ごしたタカシさんたちと、
「成人してから今まで」義理の父として過ごしてきた私。

複雑な思いは、私たちだけでなく、父にとっても同じだったかも
しれません。

父の前妻との離婚後も、タカシさんとユウリさんは父として
時々会っていたようだ、と私の母が言っていました。
(母もおそらく父がそう語っていたのを聞いて知っていた)

その当時彼らはどのような思いで過ごしていたんでしょうか。

「父」という共通の存在に関わりながら、お互いの存在を
ほとんど知らずにいた彼らと私。

タカシさんたちが社会人(教師)となってからは、めったに
会うこともなくなっていたようです。

その分、父は私の母と生活を共にしながら第二の人生
歩み始め自らの教員生活を全うし、引退後は第三の人生として
パークゴルフや木工などで自分の世界を築き上げていったのだと
思います。
父のその第二、第三の人生に時々私が脇役として登場して
いた、といった感じでしょうか。
そこにはタカシさんたちはほとんど登場していなかったぐらいの
縁の薄さになっていました。

それでも、父にとってタカシさんとユウリさんは大事な実の子供。

父は私にも本当の娘同様優しくしてくれましたが、私から見ると
やはり父にとってはどんなに離れていても血のつながった実の
子供たちのことが可愛くもあり気がかりであったように思います。

そんな父の思いやタカシさんとユウリさんの思いをくんでか
母はタカシさんとユウリさんに連絡したのでした。

タカシさんたちもかなり驚いたと思います。

それからは、父の病気の治療や転院についての病院との相談は
主に母とタカシさんとユウリさんで対応しました。

私は受身的に母からの連絡や報告を受けるのみに留まりました。

そしてタカシさん、ユウリさん、母は病院側とも相談して
当初入院していた総合病院からもう少し大きな総合病院に
転院することを決めたのでした。

そして癌が発覚してから約一週間後の8月4日に父は市内の
日赤病院に転院しました。

 

  

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2010年9月23日 (木)

父のこと(5)

7月半ばにあった久しぶりの母からの電話は、母の声が小さく
元気がありませんでした。
父が入院したということを告げる電話だったので、それもそのはず
だったのですが。

その時点では真の病名が分かっておらず、
「意識消失発作」「胸水貯留」という診断がされていました。

  →参考:意識消失発作 胸水貯留

そもそも入院するきっかけとなったのが、意識消失(失神)でした。

それに伴ってか、それと並行してかは分かりませんが、
咳と呼吸困難、胸の痛みがあったこともあり、呼吸器系の異常
見られたため、検査したら胸水貯留も明らかになったのです。

当初意識消失と呼吸器系異常ということもあり、検査は主に
脳と肺の検査を行ったようです。

結果、脳には異常は認められず、肺は水がたまっていると
いうことで、その治療をするということを私も聞きました。

母は父が発作的に意識を失うことで脳の異常を気にして
いましたが、その時点では肺機能も含めて深刻な病気と
診断されなかったので、肺がん、もしくは脳腫瘍と診断
されなかったことで少し安堵したと母は言っていました。

父はその時(7月中旬~下旬まで)、実家から30分ほど離れた、
郊外の総合病院に入院していました。

そこに私が見舞いに行った時は、一時外出から帰ってきたばかり
だったようで、父は院内廊下から病室まで歩いていました。

寝たきりの入院生活を想像していた私は、それほど
ひどくなさそうでよかった、と母同様安堵したぐらいでした。

ただ、父の声はほとんど出ない状態でした。

話をするけれども、声はほんの少しかすれた声が小さく出るだけ。

声が出ない他に、食べ物が食べられない、口にしても上手く
飲み込めない、飲み込もうとすると道に食べ物が入るから
むせて咳がひどくなる、咳がひどくなると胸痛や呼吸障害
出るからつらいんだよ、と父は出ない声をふりしぼって
がらがら声で話してくれました。

いわゆる嚥下(えんげ)障害」が見られたのでした。

 →参考:嚥下障害

病院食は出るけども、固形物は食べ辛く、豆腐やゼリーなどの
のどごしのいい柔らかい流動性のあるものだったらようやく
食べられる、といった感じでした。

その時の父は、顔色もそれほど悪くなかったので、食べ物が
食べられないことと、声が出ないという2点
が、今の最大の
問題点なのだと私は思いました。

私たちは普段、いともたやすく食べ物を食べたり飲み物を
飲んだりしているけども、それは体の機能が正常に働くことに
よってはじめて成立することなのだとあらためて
思いました。

体が「普通」=健康というのは、
「異常ではない」状態を、継続的に「維持」できている
貴重な状態
なのだと思います。

「普通でいること」は「当たり前のこと」と無意識に思いがちですが、
「普通」は「異常なしの状態が続くこと」でもあると思うと、それは
決して「当たり前」ではないんだ、と思い知らされます。

早くよくなって元通りの生活に戻れればいいね、と父を励ましました。
父も笑ってうなずいていました。

それが7月25日のことで、父のそんな喉の異常が気になると
いうことから、その日は既に消化器系の精密検査をした後ぐらい
でした。

数日後にその結果が分かる、と母は父の横で荷物を片付けながら
言っていました。

その2日後の7月27日夜。

母から電話がありました。

病院の先生から検査結果について説明があったと。

その声は、これまで以上に小さく沈んでいました。

「おとうさん、食道に悪性の腫瘍が見つかったって・・
 まるで崖から突き落とされたような気分よ・・」

と泣きそうな電話の向こうの母に、私もショックでなんと
言っていいか分からないほど大きく動揺したのでした。

   

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2010年9月22日 (水)

父のこと(4)

パークゴルフの主任指導員を始めてからは、好きだった木工も
一時中断して、パークゴルフ一色になっていったようです。

今年7月初めにも、パークゴルフ大会に母と参加していたほどで
病魔に侵されていること、進行していたことなど、母や友人、
いつも一緒にパークゴルフをしていた周囲の人たちも、予想すら
していなかったと思います。

父はその時どの程度体調が優れていないことを認識していた
のでしょうか。
今思えば調子が悪い時は少なくなかったと思いますが、本人は
たいしたことはないと感じていたのでしょうか、それとも母や
周りには言わなかっただけで、少しぐらいは「ちょっとやばいかも」
と深刻に感じるぐらいの自覚症状ぐらいはあったのでしょうか。

そうとは知らず、今年に入ってからは私の方も母や父とは
少し疎遠になりつつありました。

私は私で、自分の仕事や生活があり、日常の雑多に追われる
毎日で、母に電話の一本ぐらいしなくちゃ、と思いつつ、
自分が電話不精だったせいかなんとなく電話をかけそびれて
いました。

母も父と二人の世界、二人の生活が十分築き上げられていたし
母たちも特に電話をしてくることもなかったので、それで事足りて
いると、自分の都合のいいように解釈していました。

だけど、母たちへの連絡が遠のいていることでなんとなく
後ろめたさもあったり、気がかりな気持ちも正直ありました。

そんな矢先でした。

7月の中旬頃、母から久しぶりに電話があったのでした。

それは父の入院を知らせる電話でした。

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2010年9月19日 (日)

父のこと(3)

こんにちは。yaccoです。
昼間はまだまだ暑いですが、ずいぶん涼しくなってきました。
涼しくなってくるとこの時期、くしゃみが止まらなくて鼻グスグスが
ひどくなるのがやっかいです。

さて、今回も父の追悼記事になります。

父が好きだったものは、母のことはもちろんだと思いますが、
パークゴルフ、木工の他に、お酒、タバコ、猫、でした。

パークゴルフと木工は前々回書いたように趣味として熱心に
楽しんでいました。

お酒はいつも夕飯時の晩酌で焼酎を飲んでいたのは私の印象にも
残っています。
美味しそうに飲んでいました。
ほろよい気分になるのがいいようで、普段は口数の少ない父も、
お酒が入るといつもより増してにこやかになりおしゃべりに
なっていました。

たぶんシャイな人なんだと思います。

タバコも好きでした。

あと、パソコンやカメラなどの精密機器や電気製品も好きだったの
ですが、昔趣味でカメラをやっていたらしく、母も見たことのない
シルバーのジュラルミンケースを父が亡くなった後に
あけてみたら、それはそれは古い一眼レフカメラと、複数の
レンズが出てきました。

そのカメラはずしりと重く、いかにも金属の部品が集まった
精密機器、といった感じでそれがまたレトロ感をかもし出して
いました。

大事なカメラだったのでしょうね。

 

母と一緒に暮らすようになってからは、猫もいつの間にか
母と父とともに一緒に暮らしていました。

猫に餌を与えるのは父の役割だったようで、父がボウルに
キャットフードと猫缶を入れてカシャカシャ混ぜていると
決まって猫たちがやってきて父の足元に擦り寄ってきて
甘えたりちょこんと座って待っていたりした光景がとても
愛らしかったのを覚えています。

居間ではいつも父のひざの上に猫が乗って気持ちよさそうに
丸くなっていました。

冬、こたつに入ってタバコを吸いながら新聞や雑誌をのんびり
読んでいる父の膝元にはいつも猫がいたのは定番のスタイル
でした。

母の話によると、夜に猫たちを3~4匹ほど従えて裏山のゴルフ場に
登って、ロストボールを拾ってまわるのが父の楽しみだったとか。

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ここをずっと登っていったところにゴルフ場があります。

月夜の晩などに、ぶらっと月明かりをたよりに父と猫は
人気のないゴルフ場にこっそり入り込んで
父はロストボールを探しあるき、猫はその周りを遊んで
まわっている光景が目に浮かびます。

猫たちにも囲まれ愛されて幸せな人だったのではないでしょうか。

 

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2010年9月14日 (火)

今日のつぶやき

こんばんは。yaccoです。
父のことについて前回、前々回と書きましたが、
今日は中休みで別のことについて。

書く、というよりツイッターみたいなつぶやきですが。
ツイッターは一度にたくさんはつぶやけないですから
ここでちょっとつぶやいてみたいと思います。
私、書くときはくどいですので。はい。(笑)

9月に入ってモヤモヤしていたというかちょっとしたストレスというか、
自分に実害はないのだけど何だか疲れるタネみたいなものが
対人関係の狭間にありまして、そんな心の内を職場のチームメイトの
子に聞いてもらったら結構すっきりしました。

以前、昔の上司を加えて飲み会をしたときに、元上司は

「中に入ってくるものは出す!これ大事!
 溜め込んだらダメダメ!! ワハハハハー!!」

なんて豪快に笑って、カウンセリングとは思えない
チョーシンプルなカウンセリングトークをしてくれたのだけど
ほんとにそう思いました。

同じ課(チーム)のTちゃんやKちゃんとはバカ話から愚痴や
ボヤキや仕事の話や噂話まで、楽しく会話をさせてもらっています。
そんな彼女達には私も自然体でいられるのでほんとに感謝
しています。

私のつぶやきを聞いてもらってなんだかすっきりしました。
誰にでも話せることでもないし、彼女達だから話せたような
気がします。

私には本音を話せる友人が少数いれば十分なんです。

よきチームメイト&フレンドと出会えてよかったです。

いつもありがとう。

これからもよろしく。

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2010年9月11日 (土)

父のこと(2)

父の職業は高校の体育教師でした。
陸上部の顧問をしていたようで。現役時代は生徒達を連れて
遠征や合宿に行っていました。

教師という職業から引退した後は悠々自適に過ごしてきたように
思えます。

退職後、最初に熱中していた趣味は「木工」でした。

自宅の横に大きな小屋を作り、木工芸を堪能するための
木材や機材や工具を買いそろえ、たくさんの品物を父は作りました。

その品物は、机、イス、ベビーベッド、棚、などの大物から、
木のおもちゃ、ティッシュケース、ペンたて、茶筒、菓子入れ、
つまようじ入れ、筆入れなどの小物にいたるまで、たくさん作っては
たくさんの村人や知人や友人に分け与えて、みんなに喜んで
もらうことがまた父自身の喜びのようでした。

 →過去の記事 「木工品と囲炉裏」

父は凝り性だったのか、几帳面だったのか、木工でものを作るときの
こだわりと精度の良さは本職の大工さんから見ても定評があるもの
だったようです。

葬儀の翌日、小屋を作った大工さんが実家に弔問に来られた際、
父の木工の腕前について話してくれました。

木工を楽しむ傍ら、スポーツが好きな父はやがて友人や村の人達と
ともに「パークゴルフ」を本格的に始めました。

最初は愛好会みたいなものから始まって、だんだん規模が大きくなり
そのうちパークゴルフ協会となり、事務局などを兼任して、
全国のパークゴルフ協会に加盟し、「パークゴルフ」という、年配者
から子供、ファミリーまで誰もが幅広く手軽に楽しめるスポーツの
普及に貢献していたことは、父が亡くなってから、たくさんの
パークゴルフ関係者や協会や連合会の人々からの弔電や思い出話
や母の話などで詳しく知りました。

  → パークゴルフ協会サイト

  

元体育教師ということもあってか、パークゴルフ大会などの大会を
開催する企画力やパークゴルフを教える指導力に優れていたのか
温厚な人柄がよかったのか、たくさんの人々から親しまれていた
ようでした。

最近は県や九州支部の主任指導員(パークゴルフ普及のための
指導者育成と認定を行う)として県内外をあちこち駆け回っていた
ようです。

父と母は、大好きなパークゴルフで、いつも二人三脚で
各地で催されるパークゴルフ大会に、選手として開催者側として
参加していました。

母がたくさんの写真を見せてくれました。

そこには、北海道に行った写真、鹿児島や宮崎に行った時の写真、
たくさんの仲間達に囲まれてパークゴルフで楽しんでいる光景、
旅館での宴会で盛り上がっている写真、どれもこれもたくさんの
笑顔の写真ばかりでした。

今まで見せてもらうこともなく、見せてほしいとあえて望んだことも
なく、また母も、私に見せるほどでもないといった感じで
引き出しの奥にしまわれていた初めて見る写真を見て、
「本当に幸せそうだ」と、私までほっこりとした気分になりました。

本当に穏やかで静かで優しく温かく、懐の深い父でした。

   

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